ナスに似た花「 エキザカム 」 [デジカメ_花]
赤いユリに似た花「 グロリオサ 」 [デジカメ_花]
「 ヤマトシジミ 」のペアでしょうか(?) [デジカメ]
小林秀雄の言葉 ( その60 ) [小林秀雄]
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も亦旅人なり」と芭蕉は言った。恐らくこれは比倫ではない。僕等は歴史というものを発明するとともに僕等に親しい時間というものも発明せざるを得なかったのだとしたら、行きかう年も亦旅人である事に、別に不思議はないのである。僕等の発明した時間は生き物だ。僕等はこれを殺す事も出来、生か
す事も出来る。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望との異名に過ぎず、この生活感情の言わば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等自身の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいかどうかさえ僕等は知らぬ。従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。
「 ドストエフスキイの生活 」 11 - 一一七 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.81)
今日は素朴な「 ムラサキツユクサ 」 [デジカメ_花]
小林秀雄の言葉 ( その59 ) [小林秀雄]
子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、 この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。
「 ドストエフスキイの生活 」 11 - 一一五 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.81)